当日欠勤

私のお給料が少なかったのは、途中でお給料体制が変わった事と、遅刻などでの罰金があった事。何より痛かったのは、当日欠勤。
(書きたくはない事だけど、書かなければ後でストーカーのネタにされた事を上手く説明できないので、書ける範囲で書きます。)
当時私は、その店の店長と時々食事に行ったりしていました。誤解のないようにきちんと書くと、男と女の関係はありませんでした。店長にはたくさん女がいて、それが許せませんでした。1・2度位、やばそうな事はあったけど、他の女の影がするのはごめんでした。強がっていても、本当はひどく落ち込んでいました。店長のお母さんに、「婚約者です。」と紹介された事もあったけど・・きっとそんな事は、たくさんの女の影に埋もれて彼は言った覚えもない事と思います。当時、女がたくさんいて忙しかった彼は、私との約束は、しょっちゅうすっぽかしていました。私はそのたび、ひどく落ち込んで店を無断欠勤していました。はじめは「具合が悪いので休ませて下さい。」などと連絡を入れていましたがそのうち、もう連絡するのもいやで、無断欠勤するようになりました。お給料体制は、いい加減なもので、それぞれの時給は決まっていても、罰則などが人によって少し違っていました。彼は私が休む事には特に厳しかったと思います。確か当日欠勤は、1日分を丸々引かれ、無断欠勤については、2日分引かれていたと思います。なので、お給料は本当に少なく、ひどい時には、5万円や6万円くらいの事もありました。でもその時は、お給料や生活の事よりも、自分の恋愛の事で頭がいっぱいでした。すっぽかされて、他の女と会っている事を知ってて、その次の日に普通に出て行ける程立派ではありませんでした。たいていはひどく落ち込んで、寝込んでいました。私は彼に真面目にお付き合いをして欲しいと思っていました。でも、結局はいいように使われているだけでした。

行きづまり

新しい店でバイトをするようになってから、チラシを配ったり、電話でお店を移った事を連絡して、初めは、お客さんを呼ぶ事に一生懸命でした。お店は見る見るうちに大繁盛していきました。六本木のクラブでバイトをしていた時に来ていたお客さんも当然、来てくれていました。多い時には、テーブルが2回転も3回転もしていました。お客さんがいっぱいで席がない時は、近くの居酒屋で、テーブルがあくまで、待っていてくれるお客さん達もたくさんいました。「いまどきこんなに客が入ってるなんてすげ〜な。」などとお客さんもよく言っていました。でもそんな大繁盛とは裏腹に、お店を出した時の借金は、まだたくさん残っていて、初めの話とは違い、お給料はしょぼいものになっていました。
善良な○○さんは、殆ど毎日のように飲みに来てくれていましたが、他にも六本木のフィりピーナのいるクラブや新宿、調布の店などにも顔を出していました。お店は和気あいあいとしていて、夜中の2時に閉店してから、常連のお客さん達と店長と私達で、殆ど毎日のように近くの居酒屋や、中華料理屋、小料理屋、おすし屋などで、ご飯を食べて帰っていました。20人以上で食事をしていた事もしょっちゅうだったと思います。善良な○○さんも、次の日は朝から仕事だというのに、よくそのメンバーに加わっていました。ボーリング大会も何度かありましたが、参加者はたくさんいて、盛り上りました。オープン記念、ゆかた祭り、クリスマス、どれも、もの凄いにぎわいで、お客さんの熱気でいっぱいでした。でも、お店は大繁盛で、店の経営のゆとりも出来てきた頃には、私の生活は、完全に行きづまってしまっていました。少ないお給料が続いて家賃を支払っていませんでした。

より道 イタリア

香港を出て次に到着したのは、イタリアのローマ。ローマは古代の歴史を感じる町だった。ローマの町のあちこちに遺跡があってと言うより、私には遺跡の合間に町が出来たように思えた。フォロロマーノを見て、こんな遺跡を町のなかにドーンと残しておけるイタリア人の人間の大きさを感じた。この遺跡が残っているのは、無関心だったからなんだろう?・・・配慮深かったからなんだろう?・・と思った。そしてどちらともだったんだろうなと私は勝手に思っていた。これが東京だったら、お金のために、土地を好きなように変えようとする人は、長い歴史の中でたくさん現れたと思う。イタリアだってそれは同じ事だと思うけど・・でも、これが日本だったら、この古いがれきが、ここまで残っていただろうかと思った。すごく驚いて、これがカルチャーショックなんだと思った。そういう言葉は知っていたけど、実感したのは、生まれて初めてだった。でも、今、改めて考えると、人々に古い遺跡を大事にしようという気持ちがあってここまで残す事が出来たんだろうと思う。もちろん、近代化が進んだとか、進まなかったとか、いろんな要因もあっての事だと思うけど、同じ首都でも日本の首都の東京とはまったく違っていた。
ローマから、歩いてバチカン市国に行き、ローマを出てからピサ、フィレンツェベネチアに行った。ふと、ピサの斜塔に登れなかった事を、この日記を書いていて、思いだした。もともと見によっただけだったのだけど、周りにいた観光客の人が話していた。つい最近までは、斜塔の上まで登れたんだと。でも斜塔は年々傾いていて、今では危険だし、修復などを兼ねて、もう登れないようになったのだと。その時は、周りにいた人達が英語で話していて・・・そういう風に聞こえた気がしたのだけど・・いい加減な事をこの日記に書けないと思い、今、調べたら、やっぱり年々傾いているとの事。12年後になって確認する事になりました。変な感じです。もっと他におもしろい話はいくつかあったのだけど、ストーカー日記に戻れなくなりそうなのでイタリアはこのあたりまでにして。いつか機会があったら書きます。

より道 香港

ストーカーの話は、今、この段階で書ける話と書けない話を分けなければいけないという事と、長い話(会社がこの件を隠蔽をしようとして、集団ストーカーという形にまでなってしまった事)をどう書いていいのかなど、なかなかすんなりと書く事が出来ません。書く気にならない日もあり、そんな時は時々より道をして世界一周をしていた時の事などを少し書いていこうと思います。
より道 香港編 
日本を出て、あっという間に香港につきました。香港でとても印象に残っている事は、これから先の事を考え、出来るだけ安い食事をしようと思いながらレストランを探していて、歩いているうちにだんだん繁華街から離れてしまい、ちょうどよさそうなお店も見当たらなくなってきて、ホントお腹が減ってお腹が減ってたまらなくなってしまった事。結局小さな小屋のようなお店で、思わずフライドチキンとポテトを買って食べて、『せっかく来たのに、香港で最初の食事がフライドチキンか〜。』と思ったのをよく覚えています。それから私が見て歩いた範囲内の場所での事ですが、ビルやマンションが所狭しと建っている所があり、あまり綺麗じゃないけどオフィスになりそうな建物に普通に人が住んでいました。日本のマンションってそれなりに横の幅もあると思うんです。それに比べると横の幅より縦の方が長い、やたらスマートな縦長の、ビルがたくさん建っていました。土地が狭いと、縦に縦に家が高くなって狭い土地の上に上に人が住むようになるそうです。本当にそんな感じでした。下から見上げると、ビルの窓から窓にひもがつながれてて、洗濯物がひらひらと舞っていたり、お布団が干してあったりしていて、不思議な光景でした。それで、人が住んでるんだ・・と気づきました。はじめはオフィスだとばかり思っていました。あちこちのビルで洗濯物がひらひら舞っていて、日本のビル街では考えられない光景でした。それから『こんな細いビルのあんな高いところには住みたくないなあ、地震の時はゆれるだろうな〜。』と思いました。私が九州にいた頃は、めったに地震はなく、震度1や2の地震でも、地震がおきようものなら、その震度1や2くらいの地震に気がついたの気づかなかったの、寝てて目が覚めたの覚めなかったの、、、次の日は必ずと言っていいほど話題になっていました。外にいる人が、震度1や2くらいの地震でも、「今地震がなかったかえ〜?」なんて人の家に聞きに入って来たりする程でした。そんな環境で育ったので、香港のビルを見てすぐに『住みたくないな〜地震の時はゆれるだろうな〜。』と思いました。でも香港の夜景は(実際の生活はどうか解りませんが)本当に綺麗でした。

後になって私のストーカーだという話にされてしまった善良な○○さん

街頭に出てチラシを配っていたある日、感じの良い4人の男性がこちらに歩いて来ているのが目に入った。一緒にいた子と「あっあそこあそこ」などと言いながら、行ってチラシを渡した。その頃はチラシを配るだけでも、おおはしゃぎだった。「飲みに来て下さ〜い。」とニコニコして差し出すと、その4人は感じ良く、チラシを見て、「ほんとにこの値段なの?行ったらボッタクラレタなんて事ないよね?」とか何とか言いながら、来てくれた。(ちなみに料金はチラシ通りでした。)その4人は、身長差はあるけど、同じような顔をしていて、「どういう関係ですか?」って聞くと兄弟3人と叔父さんとの事。「なる程ーっ。それで同じような顔してるんだ−。」って皆で笑った。その3人兄弟の次男坊が善良な○○さん。
この前(9月1日)善良な○○さんと、古い友人の雨○さんと3人で、(善良な○○さんは今ではもう10年来の知り合いになるし、雨○さんに関してはもっと長い知り合いです。)善良な○○さんの転職祝いも兼ねて会社帰りに食事に行った。善良な○○さん(以後名前は○○さんと書かせて下さい)は、外資系の大手ソフトウエア会社の日本ブランチの役員をしていた。韓国ブランチで不正があって、韓国で何人かがクビになったと聞いていたがしばらくしてから、もう忘れた頃になって突然、アメリカのナスダックで話題にされて、その責任を取らされて去年会社を辞める事になってしまった。こんな風にしか日記には書けないけど・・・・・おかしな話だった。その前から、○○さんの周囲の環境が不穏の様だった。
9月1日に、この日記の事を○○さんに話した。○○さんは、人づてに聞いて知っていたとの事。それから昨日と一昨日、○○さんに電話をして、「昔チラシを配ったとき確か兄弟3人で来てたよね?」と確認をした。「これから時々登場するけどいい?」って一応話しておいた。私の携帯と、私の部屋の電話から。

未だ書けない事。

世界一周旅行から帰って来てから、手っ取り早くお金を稼ぐ為と、もう1つ、ある理由から六本木のクラブでバイトをした。数ヶ月位の間の事。書きたくてもまだ書けない事がいろいろとある。ストーカー連中のネタにされた事と関わる事などもあるけど、書きたくない事もある。この日記は当然ストーカー連中も読んでいると考えて、書ける事と書けない事がある。誤解されていると思う事などで、この時点で書けるけど書きたくない事もある。書ける事はいづれ近いうちに書くかも知れない。どちらにしても今日は止めておく。後でごたごた言われないよう事実をゆがめる事なく書きたいと思うので、ここもいろいろあるけど、とりあえずはしょります。結構疲れます。今までも書きたいことを削って書いてます。
連中の言い訳を用意させる訳にはいかないので・・。(この意味が理解出来ますでしょうか?刑事さん。)
六本木で、数ヶ月バイトした後、世界一周旅行に行く前に働いていた例のパブの関係の店長が、独立して自分の店を持っていて、そこでバイトしないかと誘われた。「おまえにだったら、月40万払うよ。」という事だったけど・・。前に働いていたパブもそうだけど、割りときちんとしている店だったので、(体をはって客を呼ぶとかそういうことはまったくなく)時給は安かった。この程度の店では、月40万円というのは、かなり良いお給料だった。でも40万円程もらったのは1回位・・。勤めてみると、もうバブルもほとんど崩壊していて、お店はこの先やっていけるかどうかというセトギワ。そこで私は何とか助けてあげたいと思う。電話をかけてたくさんお客さんを呼んだ。街頭に出てチラシ配りもしていた。

世界一周

2年働いて、住○生命を辞めてから、せっかく時間があるので、海外旅行に行く事にした。次に就職をしたら、一生働くぐらいのつもりでいたので、その先、1ヶ月も2ヶ月も時間が取れる事はないだろうと、少し長期で行く事にした。格安の世界一周旅行のチケットが香港で売られていて、それを手に入れた。1992年のバルセロナオリンピックの年、日本を出て、香港、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、メキシコ、アメリカ、タヒチ、トンガ、フィジーニュージーランド、オーストラリア、香港、と周って日本に帰ってきた。1年と少しかかった。はじめは3ヶ月で帰る予定だった。でもヨーロッパだけで、3ヶ月滞在した。ヨーロッパではユーレールパスを持っていたので、移動しながら寝台電車で寝泊りした日も少なくなかった。フィジーでは1ヶ月程滞在して、ただ働きをしながら、ダイブマスターの、Cカードを取った。貧乏旅行だったので、1年と少しの間、宿泊先は殆どユースホステルだった。途中いろいろと日本では考えられない珍道中があったので、ストーカー日記から少し寄り道をして、書きたい所です。世界一周なんて結構すごいでしょ。こんな話は一部ではヒンシュクかと思いますが。。